連続ブリーチングの謎
2週目の夕方、クジラが突然ひれで水面を激しく叩き始めました。その音は1km先まで響きました。マーカスが計測すると、12回連続でほぼ同じ間隔のブリーチングでした。これはランダムな行動ではなく、明らかに意図的なリズムでした。エミリーは映像を繰り返し確認しながら思いました。クジラは誰かに何かを伝えようとしているのでしょうか。そしてその「誰か」とは、この船のエミリーたちのことなのでしょうか?
腹部の変化
翌週、エミリーはクジラの泳ぎが少し遅くなっていることに気づきました。いつもは船の速度に合わせて優雅に泳いでいたのに、今日は少し遅れがちでした。ドローン映像を確認すると、腹部がいつもよりわずかに膨らんでいるように見えました。水中映像でも体型に微妙な変化が出ていました。マーカスが資料を調べながら言いました。「これはもしかして、妊娠しているのでしょうか?もしそうなら、なぜ出産前のこの時期に船から離れないのでしょうか?」
専門家の見解
エミリーはサンフランシスコの海洋哺乳類センターに映像を送り、所長のドクター・ウィリアム・チェンに意見を求めました。1日後に返信が届きました。「腹部の形状から妊娠後期の可能性が高い。ザトウクジラは出産前に安全な場所を探す習性がある。その船が彼女の目には安全な避難場所として映っているのかもしれない」という内容でした。エミリーは長い間、そのメールを読み返していました。
帰港命令
その日の夕方、マーカスが研究所から転送されてきたメールをエミリーに見せました。「調査期間の延長は予算上不可能。予定通り4日後に帰港せよ」という所長の指示でした。エミリーは夕日を見ながら考え込みました。クジラの謎を解かないまま帰るべきなのか。しかしクジラは自分から船に近づいてくるのに、距離を保つことなどできるのでしょうか。帰港したら、出産直前かもしれないこのクジラをここに残していくことになるのでしょうか?
夜間の見張り
ホロウェイ船長は夜の見張りを強化していました。クジラが夜間も船のそばにいるかどうか確認するためでした。夜11時、見張り担当のクルーから報告が届きました。クジラは船の左舷3メートル、体をゆっくりと傾けながら、まるで眠るように浮いているとのことでした。クジラが人間の船のそばで眠るという記録は、ほとんど残っていませんでした。しかしこのクジラにとって、この船は眠れるほど安全な場所なのかもしれませんでした。
古い写真の発見
エミリーが船内の資料室を整理していると、棚の奥から色あせた封筒が出てきました。中には3枚のカラー写真が入っていました。15年前、ロープに絡まった子クジラを救助している場面でした。写真の隅に日付と座標が手書きされていました。そして3枚目には、離れたところから見守っているように見える成体クジラが写っていました。その背中の傷跡の配置が、今のクジラとよく似ていたのです。これはいったい、どういうことなのでしょうか?
DNA採取の試み
エミリーはクジラの皮膚サンプルを採取することにしました。バイオプシーダーツという専用の器具を使えば、クジラにほとんど痛みを与えずに微量の組織を採取できます。マーカスが慎重に作業を行い、1回目の試みで成功しました。クジラは一瞬驚いた様子を見せましたが、すぐに船の脇に戻ってきました。サンプルをドライアイスで梱包してハワイの遺伝子解析研究所へ送りました。結果が届くのは1週間後のことです。
他の船との比較
調査中、30km先を航行していた観光船の船長から無線が入りました。「そちらのクジラがこっちにも来ないか」という問い合わせでした。エミリーはクジラの動きを観察しました。観光船が接近してくると、クジラはそちらへ向かわず、必ずオーシャン・ドーン号の脇に戻ってきました。記録を調べると、このクジラが他の船に接近したことは一度もありませんでした。なぜこのクジラは、この船だけを選び続けるのでしょうか?
母の声との一致
リアが過去5年分のモントレー湾クジラ音声データベースを徹底的に調べました。数時間後、リアが静かに声を上げました。現在のクジラが発する特定の音節パターンが、10年前に記録された別の個体の声と完全に一致していたのです。その10年前の個体を追うと、15年前の救助記録に登場する「母クジラ」と同一個体であることが確認できました。つまり今のクジラは、船長たちが助けた子クジラを生んだ母クジラの「娘」である可能性が浮上したのです。
研究者の葛藤
エミリーは夕食を取らずにデッキに出て、暗い海をじっと見つめていました。DNA結果はまだ届いていない。帰港まであと2日しかない。証拠のない論文を書くことは科学者として許されないし、かといって許可もなくここに残り続けることもできません。研究所の規定と目の前の現実の間でエミリーは動けなくなりました。クジラは今日も船の脇で静かに浮いていました。科学と感情のどちらが正しいのか、この問いに答えはあるのでしょうか?