1. タンスの底の封筒

マイルズが古びた封筒を見つけたのは、母エレナが息を引き取ってから三日後のことでした。施設への引き渡しを翌日に控えて荷物を整理していたとき、タンスの一番下の引き出しの底——剥がれかけた木板の裏に、丁寧に貼り付けられた茶色い封筒がありました。中には白黒の写真一枚と、小さく折り畳まれたメモが入っていました。写真の裏には「君の父親」とあり、メモには「テキサスへ行け。ダラス、コールド・スプリング・ロード72番地」と書かれていました。財布を確認すると、74ドルが入っていました。テキサスまでのバス代には、ちょうど足りる金額でした。
2. 74ドルの出発

翌朝、マイルズはアトランタのバスターミナルに立っていました。後見人には「友達の家に泊まる」と伝えてあり、リュック一つで窓口へ向かいました。74ドルはダラス行きの片道チケット代にぴったりでした。バスが動き出した瞬間、マイルズは初めて泣きました。怖いからでも悲しいからでもなく、何かが弾けたような感覚でした。それにしても、テキサスまでのバス代にちょうど足りる金額を、誰が封筒に入れておいたのでしょうか。
3. 見知らぬ乗客

バスがジョージア州の州境を越えたころ、隣の席に初老の男が座りました。グレーのジャケットにハット姿の男は、窓の外を向いたまま言いました。「ダラスには何しに行く」。マイルズは驚いて男を見ました。行き先など一言も話していませんでした。男はかすかに笑い「この路線はダラス行きしかないからな」と続けましたが、その視線は一瞬だけ、マイルズのポケット——写真をしまった場所——に落ちていました。マイルズはその目の動きを見逃しませんでした。
4. 黙り続けた母

マイルズが物心ついたころから、エレナはひとりでした。父親の話を切り出すたびに、エレナは必ず話を変えていました。マイルズが8歳のとき、引き出しの中に大人向けの地図帳があり、テキサスのページだけ折り目がついているのを見つけました。「なぜテキサスに?」と聞くと「間違えて開いた」とだけ答えました。しかしエレナはその地図帳を、翌日には捨てていました。テキサスという名前を、エレナはなぜそれほど隠したかったのでしょうか。
5. 春の診断

エレナが脳腫瘍と診断されたのは、マイルズが13歳の春でした。手術は成功しましたが再発し、二度目の手術の後、言葉が不明瞭になっていきました。それでも彼女はマイルズを見るたびに笑い、施設への入所を頑として断り続けました。ある夜、マイルズが様子を見に行くと、エレナはうわごとで「ジェイク、もういい——もう十分だ」と繰り返していました。ジェイクとは、いったい誰なのでしょうか。
6. 最後の夜

エレナが最後に意識を失う前夜、彼女はマイルズの手を力強く握り、唇を動かしました。声にはなりませんでした。マイルズは顔を近づけ、唇の動きを読もうとしました。「テ、キ、サ、ス」——そう読めた気がしましたが、確信はありませんでした。翌朝、エレナは目覚めませんでした。封筒のメモに「テキサスへ行け」と書かれているのを見たとき、マイルズはあの夜の唇の動きを思い出しました。エレナはあのとき、テキサスへ行けと伝えようとしていたのでしょうか。
7. 引き出しの秘密

エレナが逝って一日後、マイルズは一人で部屋を片付け始めました。タンスの引き出しを開けるたびに母の匂いがしました。一番下の引き出しの底——剥がれかけた木板の裏に、茶色い封筒が貼り付けてありました。誰にも見つけられないように、丁寧に隠されていました。写真の男は三十歳前後で、広い草原を背景に立って笑っていました。マイルズは思わず写真を裏返しました。「君の父親」——たった四文字が、胸の奥へ刃のように刺さっていきました。
8. たった一行の命令

メモを開くと、見慣れない筆跡で短い文章が書かれていました。「テキサスへ行け。ダラス、コールド・スプリング・ロード72番地」。日付も署名もなく、住所だけでした。翌日には施設へ行かなければならないことはわかっていました。しかしマイルズの頭の中では、すでに別の決断が固まり始めていました。この命令を書いたのは、いったい誰なのでしょうか。
9. 夜明け前

その夜、マイルズは眠れませんでした。施設に入れば、テキサスには行けなくなります。十八歳になるまでの二年間、規則に縛られます。そのあいだに写真の男が死んでしまったら、二度とチャンスはありません。朝五時に起き、着替えと荷物をリュックに詰めました。財布には74ドルだけです。振り返りはしませんでしたが、玄関でただ一度だけ立ち止まりました。「待っててね、お母さん」——声に出すつもりはなかったのに、言葉は自然にこぼれていました。
10. アラバマの車窓

バスはアラバマ州に入っていました。車窓から赤土の丘と松の林が流れていきました。マイルズは写真の男の顔を何度も確認しました。目元が自分に似ている気がしましたが、そう思いたいだけかもしれません。隣のグレージャケットの男はいつの間にか眠っており、かすかないびきをかいていました。次の停車地はバーミングハムで、乗り換えがあります。見知らぬこの男は、なぜダラス行きのバスに乗っているのでしょうか。
11. 気をつけろ

バーミングハムのターミナルで、初老の男は目を覚ましました。席を立ちかけた男はふと足を止め、マイルズを見下ろしました。「その住所、気をつけろ」。マイルズは「何を知っているんですか」と問い返しましたが、男はすでに通路を歩き出していました。降り口で一度だけ振り返り、帽子のつばを引いた男の姿は、人混みにすぐ溶け込んで消えていきました。あの男は、コールド・スプリング・ロードの何を知っているのでしょうか。
12. 消えた女

ミシシッピ州で乗り換えたバスの隣の席に、黒いジャンパーを着た二十代の女性が座りました。名前はキャシーといい、ダラスで仕事を探しているとのことでした。マイルズがうとうとしたとき「寝ていいよ」とだけ言いました。目が覚めると、キャシーの姿が消えていました。代わりに座席には折り畳まれた紙が置かれており、広げると手描きの地図が入っていました。走行中のバスから、彼女はどこへ消えたのでしょうか。
13. 行くな

地図にはダラス郊外のいくつかの道が描かれており、コールド・スプリング・ロードも含まれていました。しかし地図の端には赤いペンで大きくバツ印がつけられた場所があり、そこには「行くな」と書かれていました。住所の番地とほぼ同じ場所でした。バーミングハムの老人も「気をつけろ」と言っていました。二人は別々に、同じ場所について警告しています。この二人は、どこかでつながっているのでしょうか。
14. テキサスの夜明け

バスがテキサス州に入ったのは、翌朝の夜明けころでした。地平線から朝日が昇り、広大な平野を橙色に染めていきました。マイルズはその光景を見て、初めてこの旅が本物だと感じました。ダラスのターミナルに降り立つと、乾いた風が頬を刺しました。財布にはもう31ドルしか残っていませんでした。警告を二度受けたその住所へ、それでも足を向けるのは正しいことなのでしょうか。
15. 白いフェンスの家

コールド・スプリング・ロードは、古い木々が並ぶ静かな通りでした。72番地は白いフェンスで囲まれた古びた一軒家で、庭には手入れされた花壇があり、玄関先には古いロッキングチェアが置いてありました。マイルズは門の前で立ち止まりました。チャイムを押せば、すべてが変わります。そのとき玄関の扉が内側から開き、六十代の女性が現れました。女性はマイルズを見て「来ると思っていたよ」と言いました。
16. 祖母の告白

女性の名前はドロシーといいました。「中に入りなさい」と促されるままに、マイルズは玄関を入りました。居間の壁に家族写真が飾られており、そのひとつに写真の男がいました。若い頃の姿でしたが、間違いありませんでした。「この人は?」と聞くと、ドロシーはしばらく黙り「私の息子よ」と答えました。そして「あなたのお父さん」と続けました。ドロシーは、なぜ最初からマイルズが来ることを知っていたのでしょうか。
17. 20年前の約束

ドロシーはキッチンでコーヒーを淹れながら話し始めました。息子の名前はジェイクといい、二十年前にアトランタで働いていたときエレナと出会いました。しかし当時のジェイクにはギャンブルの借金問題があり、返済できずに追われる形でテキサスへ逃げ帰ってきました。「必ず戻る」とエレナに約束しましたが、戻れませんでした。「ジェイクはずっと後悔していたわ」とドロシーは言いました。「あなたのことも、知っていた」と付け加えました。
18. 封の切られていない封筒

「父は今、どこにいるのですか?」とマイルズが聞くと、ドロシーの表情が曇りました。「三年前に出て行ったのよ。また問題が起きて——今度は違う種類のね。私にも連絡先を教えてくれなかった」。マイルズはがっくりとしましたが、ドロシーはすぐに続けました。「あなたが来ることはわかっていた。だから準備していたのよ」。棚から取り出した封の切られていない封筒には「息子へ」と書かれていました。今度は違う種類の問題とは、何だったのでしょうか。
19. 父からの手紙

封筒の表の筆跡は、あのメモと同じものでした。マイルズの手が震えました。中には便箋が三枚入っており、最初の一行を見た瞬間、目が霞んでしまいました。「マイルズへ。これを読んでいるということは、お前がここまで来たということだ。よくやった」。父は生きていて、この手紙がマイルズに届くようドロシーに頼んでいたのです。マイルズは震えを抑えながら、次のページへ目を走らせました。
20. 証人保護

手紙によれば、ジェイクは三年前から連邦捜査局の情報提供者として活動していました。かつて関わってしまった違法賭博の組織の内部情報を当局に提供し、証人保護プログラムに組み込まれていたのです。マイルズに会いに行けば組織に居場所が割れる可能性があったため、動けなかったと書いてありました。しかし次のページには住所と電話番号が書かれていました。あえて連絡先を残したということは、もう会っても安全だということなのでしょうか。
21. 発信ボタン

手紙の最後のページには、ニューメキシコ州アルバカーキの住所と電話番号が書かれていました。「かけるかどうかはお前が決めろ。会いに来てもいい。ただ、一人で来い」とありました。ドロシーはコーヒーカップを持ったまま、マイルズから視線を外しました。マイルズは番号を打ち込み、発信ボタンを押しました。呼び出し音が三回鳴り、四回目に入る前に男の声がしました。「もしもし」——その一言で、マイルズの喉が完全に閉じてしまいました。
22. 初めての声

「マイルズか?」と男は言いました。答えられませんでした。喉が詰まって声が出なかったのです。それでも男は「よかった、元気そうで」と続けました。電話越しなのに、その声はなぜか懐かしく感じられました。「会いに来られるか」と男は聞き、マイルズはやっと「はい」とだけ絞り出しました。電話を切ると、ドロシーがティッシュを差し出してきました。自分が泣いているのに気がつきましたが、なぜこんなにも涙が出てくるのでしょうか。
23. 西へ

ドロシーはサンドウィッチを作り、二十ドルを渡してくれました。「バス代の足しにして」と言いながら送り出してくれました。コールド・スプリング・ロードの木々の間を歩きながら、マイルズはあの手描きの地図を思い出しました。老人は「気をつけろ」と言い、キャシーは「行くな」と書き残しました。それでもマイルズは来て、そして今、もう一歩先へ向かおうとしていました。バスターミナルへ向かう途中、一台の車が横に止まりました。窓が開くと、あのグレーのジャケットの男が座っていました。
24. 古い友人

「乗れ」と男は言いました。「アルバカーキまで送る」と続けました。どうして行き先を知っているのか——マイルズが問う前に、男は「俺もジェイクの仕事に関わっている」と言いました。連邦捜査局の人間かと聞くと「そんなかっこいいもんじゃない。ただの古い友人だ」と答えました。バスを降りて人混みに消えたはずの男が、アルバカーキへ向かうマイルズの前に現れています。この男はずっと、マイルズの後をついてきていたのでしょうか。
25. 夕暮れのアルバカーキ

アルバカーキに着いたのは夕暮れ時でした。街はオレンジと紫の空に包まれていました。男は住宅街の前で車を止め「ここから先は一人で行け」と言いました。マイルズが礼を言って降りると、男は「バーミングハムで言ったこと——あれは住所への警告じゃなかった。旅そのものへの警告だった。それでもお前は来た。それで十分だ」と言い、アクセルを踏みました。マイルズは小さな一軒家の前に立ち、ドアをノックしました。
26. 初めての対面

扉が開きました。五十代の男で、白髪交じりの黒髪を短く刈っていました。目元がマイルズに似ていました——いや、マイルズが男に似ているのです。二人はしばらく無言で向き合いました。男がまず口を開きました。「大きくなったな」。一度も会ったことがないのに「大きくなった」と言えるということは、ジェイクはずっとマイルズのことを見ていたのでしょうか。
27. 愛していましたか

食事をしながら、ジェイクは話しました。エレナと別れた後も遠くから見守っていたこと、病気になったことも知っていたこと、そして会いに行けなかった本当の理由を話してくれました。「正直に言えば——怖かった」とジェイクは目を伏せました。「お前に拒絶されることが」。マイルズは箸を置き、父の顔を真正面から見ました。怒りがないわけではありませんでしたが、今はそれより先に確かめたいことがありました。「母のことを、愛していましたか」。ジェイクの目が、赤くなりました。
28. 溶けていくもの

「愛していた」とジェイクは言いました。「今も」。沈黙が続きました。マイルズはゆっくりと息を吐きました。失われた時間は戻りません。母の最後に父がいなかった事実も変わりません。それでもマイルズの中で、何かが溶けていきました。怒りでも悲しみでもなく、ずっと胸にあった空白のようなものが消えていく感覚でした。「会いに来てよかった」とマイルズは言いましたが、ジェイクの目には何が浮かんでいたのでしょうか。
29. 毎週日曜日

その夜、マイルズはジェイクの家に泊まりました。部屋は小さかったですが清潔で、窓からアルバカーキの夜景が見えました。スマートフォンには施設の担当者から三十件以上の着信がありましたが、もう怖くはありませんでした。マイルズはジェイクに言いました。「18歳になったら、また来てもいいですか」。ジェイクはすぐに「当たり前だ」と答えました。「それまでは電話しろ。毎週日曜日、必ず出る」。マイルズは初めて、父親という存在をそこに感じました。
30. 帰りのバス

帰りのバスの中で、マイルズは写真の男——父のジェイク——を改めて見ました。草原を背景に笑うその顔が、今は違って見えました。遠い人ではなく、確かにそこにいる誰かの顔に見えました。母が最後まで封筒を隠していた理由が、今はわかる気がしました。守るためだったのです。バスはテキサスを抜け、東へ向かっていました。マイルズはヘッドフォンをして目を閉じました。初めて、眠れる気がしました。