11. 裏の文字

エドワードは絵を保管室から取り出し、ガラスケースの外でドロシーに見せてくれた。ドロシーは震える手で絵の裏を見た。「Dorothy, age 8, Cincinnati, 1944」。薄くなっていたが、確かに自分の字だった。鉛筆で丁寧に書いた文字。「作品の裏には必ず名前を書く」と当時の先生に言われ、徹底していた。エドワードも絵の裏の文字を見て、静かに言った。「やはりそうでしたか」。ドロシーは絵を手に持ったまま、しばらく声が出なかった。
12. ジャックの手紙

翌日、エドワードから電話が来た。「祖母の家に残っていた祖父の手紙の中に、絵のことが書かれていました」。エドワードが読み上げてくれた手紙の一節。「1944年11月、オハイオの宿で子どもの絵を預かった。Dorothyという名前が裏にある。戦争が終わったらこの絵を持ち主に返したい。赤い傘の女性が描かれた、心のこもった絵だ」。ドロシーは電話を持ったまま目を閉じた。七十年前、あの宿に泊まったアメリカ兵が、絵を拾っていたのでしょうか。
13. 交差した時間

ドロシーが疎開の荷物を積み替えた日、ジャックはちょうどその宿に入った。二人の時間が交差していた。宿の主人がジャックに「子どもが忘れていった」と絵を見せたとき、ジャックは包みを開けた。水彩の青い海と赤い傘。小さな絵の中に、誰かの大切な記憶が込められていた。ジャックは「捨てるには忍びない」と思い、丁寧に包み直して自分の荷物に入れた。その夜、ジャックは日記にこう書いた。「いつか持ち主が現れることを信じて持ち帰る」。
14. 戦後のジャック

終戦後、ジャックはニュージャージーに帰還し、マーガレットと結婚した。絵は書斎の棚に飾られた。マーガレットが「それ誰が描いたの?」と聞くと、ジャックは「戦地で拾った。子どもが描いたものだ」と答えた。「返さなくていいの?」と聞くと、「Dorothyという子を探したが、見つからなかった」とジャックは言った。毎年、ジャックは何かのきっかけでその絵を見るたびに「Dorothyはどこかで元気にしているだろうか」と呟いたという。その言葉を、マーガレットは何度聞いたのでしょうか。
15. 孫の決断

エドワードは祖父のコレクションを美術館に寄贈するとき、この絵を含めることを迷った。「個人的なものだから」と思ったが、マーガレットが「おじいさんはいつかこの絵が持ち主に返ることを信じていた。展示すれば誰かの目に触れるかもしれない」と言った。エドワードはそれに従い、「持ち主が現れたら返してほしい」という条件をつけて寄贈した。それから二年が経ち、七十八歳のドロシーが美術館の廊下を歩いてきた。
16. 筆跡鑑定

エドワードは正式な手続きを踏むため、筆跡の専門家に鑑定を依頼した。ドロシーは当時、自分が書いた文字のサンプルとして日記を持ってきた。八歳当時の日記がまだ残っていた。鑑定士は二枚の文字を比較し、一週間後に結論を出した。「筆跡の特徴が一致します。同一人物による文字と判断できます」。エドワードは電話でドロシーにその結果を伝えた。「おめでとうございます」という言葉が、なぜかすぐには出てこなかったのでしょうか。
17. 返還の決定

美術館の理事会が開かれ、絵の返還が正式に決まった。エドワードは「祖父のコレクションとして受け取ったが、これは最初から持ち主に返すべきものでした」と説明した。理事の一人が「こうした経緯は記録しておくべきだ」と言った。絵を返す前に展示期間を一ヶ月延長し、説明パネルを更新することが決まった。「この絵には持ち主がいます。七十年後に出会いました」という一文が添えられた。
18. 最後の展示

返還の一ヶ月前、ドロシーは再び美術館を訪れた。今度は一人だった。展示室に入り、絵の前に立った。更新されたパネルを読んだ。自分の名前が書かれていた。「Dorothy Harper(旧姓Mitchell)、1936年オハイオ州シンシナティ生まれ。この絵の制作者」。ドロシーはしばらく読んだ後、絵を見た。七十年前の自分が描いた、祖母の赤い傘。その前に立つ老婦人が絵の作者だと、他の来館者は知るよしもないのでしょうか。
19. 帰ってきた絵

返還式はひっそりと行われた。美術館の一室に、エドワードとドロシーと娘のスーザンだけが集まった。エドワードが両手で絵を持ち、ドロシーに手渡した。「七十年、お待たせしました」とエドワードは言った。ドロシーは絵を受け取った。軽かった。こんなに小さかったのかと思った。画用紙は少し薄くなり、青い色は褪せていたが、赤い傘は赤いままだった。ドロシーは絵を胸に抱えた。
20. 祖母の声

家に帰り、ドロシーは絵を明るい窓の前に置いた。光が当たり、薄くなった水彩の色が柔らかく滲んだ。赤い傘の後ろ姿。祖母エドナはいつもこんな風に立っていた。ドロシーは目を閉じた。波の音が聞こえた気がした。エドナの声が聞こえた気がした。「ドロシー、また来たのかい」。スーザンが「どうする?飾る?」と聞いた。ドロシーはしばらく考えた。七十年間、誰かが大切に保管してくれた絵を、どこに飾ればいいのでしょうか。